「老い」を感じる

昨日、家内とアーラで開かれているOさんの水彩画展を見に行った。

その時、紙芝居の担当であるIさんとお会いした。

実は、先日、「紙芝居一座」を中座休止する旨を申し出た。

理由としては、喘息による息苦しさとお伝えした。

ま、それは、身体的な理由のひとつであるが、実は決定的な理由ではない。

Iさんからも「落語の方は頑張るんでしょ?」みたいなことを言われた。

多分、紙芝居一座のほとんどの人がそう思っているに違いない。

「落語」はできて、「紙芝居」はできないってか?

多分そういう非難の言葉が隠れているのだろうが、そういう言い方に、事実上の退会を詰る気持ちが滲んでいる。

そういう非難に対しては、黙して語らずだ。

心の中では、きっとあなた方もある年齢になればきっとそういうところに直面する、そう思っている。

実は、最近、いろんな場面でどんどん前出来たことができなくなっている。

例えば、お芝居の稽古に行くことがどんどんつらくなってきている。

さしたる理由はない。

理由を求めるとすれば、「老い」ということでしかない。

でも、台詞覚えが悪くなったとかそういう表面上の理由よりはるかに大きな要素である。

「興味」より「辛さ」が勝ち始めるところに「老い」がある。

昔は喜んでやっていたことが、ただただ辛くなる。

「紙芝居」に関しては、そういうことが度々襲ってきた。

兵五郎役のBさんが退会された時、大きな喪失感があった。

あの時、ぼくも退会すべきであった、そう今は思っている。

いわゆる、気持ちが切れた感があった。

誰かが、先日も「老いとは、前で来たことがどんどんできなくなっていく自分を見つめること」とおっしゃっていた。

近い将来、ぼくも歩くことさえままならなくなるだろう。

98まで生きた母が電話口で、「生きてるだけでもえらいでしょ?」と言っていたが、きっとそうなるはずである。

若い人は、当然のように、「イヤイヤ…、まだまだ老け込む年齢じゃありませんよ」と言うだろう。

ぼくもこれまでそう言って、励まして(?)きた。

だが、同年の友人がぽっくり逝ったりすると、いつまでも元気であり続けるほうが奇跡だということに思い当たった。

そういう意味で、ぼくはしっかり「老い」を感じとって行こうと思い始めている。

出来なくなっていくものは、あきらめるしかない。

芝居と落語。

頑張ってものを言うと出る咳で、ごまかせるのは「落語」のほう、それだけの理由で落語を残した。

「落語」は稽古しないでも恥をかくのは自分一人で済む。

「芝居」の方は、稽古を含めて、自分勝手の許される領域は狭い。

一緒にやる仲間に迷惑はかけられない、そういう理由だ。

お芝居をやってる人は、概ね、若い。

演出のT先生にも言ったことがあるが、腰を曲げて台詞を言うだけのことができないのだ。

不思議そうな顔をされたが、70になった時、自分もできるか思い起こしてほしい。

腰を曲げるだけでも、大ごとなのである。

2011年、63歳からお芝居を楽しむことで、ぼくの老後は素晴らしい彩りと輝きを持った。

誠にありがたいことであった。

「紙芝居」、またやりたくなるようなことはないと思うが、そういう気分になったら、それはそれで嬉しいことである。

「桃太郎の大鬼」、「スーホの白い馬」の王様、ぼくにぴったりの役を楽しめた。

時間の使いかたが命の使いかた、といった人がいる。

その意味で、ぼくは60代、いい命の使いかたをしたように思う。



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