身を捨つるほどの祖国はありや
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身を捨つるほどの祖国はありや」。
寺山修二の歌集『空には本』という歌集に納められている短歌である。
われわれ団塊世代であれば、青年時代、寺山修二、唐十郎という演劇人には少なからず大きな影響を受けた(筈だ)。
この歌は、新宿の紀伊国屋の近くの喫茶店で青木君という友人に聞かされた覚えがある。
青木君はその後東大安田講堂に立て篭もって、催涙弾を耳に受けた。
そして、その傷が原因で大学を中退した、そんなバリバリの左翼学生であった。
まぁ、当時の気分から言えば、『身を捨つるほどの祖国はありや』というフレーズは極めて左翼的なフレーズで吐かれたものだ。
「軍国日本じゃあるまいし、祖国に殉じるなど命を粗末にするだけの愚行」、そんな意味合いだった。
あの頃は、国家権力=右翼的復古主義者、反体制派=左翼的革新主義者といった構図の中で互いの価値観の尊貴を主張し合っていた。
で、左翼的革新主義者を標榜した人たちは、「あれほどの惨禍を今次大戦で味わったのにまだ復古主義を唱えるか、そこまで傾倒させる熱病的な愛国思想とは何か」と呆れる思いで、老人たちの復古主義に警戒心を抱いていた。
おそらく、寺山修二も同様の思いで『身を捨つるほどの祖国はありや』と詠んだに違いないのである。
日本人なら愛する国に命を捧げて何の悔いがあろうと考える人と、冗談じゃない、国に命を捧げるなどという美名のもとにまたあの悲しさを繰り返すのかと考える人がいる。
今もきっと、その価値観の対立は水面下では続いている。
ところが、あれから40年という歳月を経て、あの頃の若者が最も嫌った形而学的概念論が「左翼的革新主義思想」側にも起こっている。
最近の「朝日新聞誤報問題」、「従軍慰安婦問題での嫌韓的気分」、「謝罪外交、自虐的歴史観への反発」などがその現象であろう。
その中で、『身を捨つるほどの祖国はありや』というフレーズは、すっかり右翼的立場にある若者などに使われているのである。
「かつて、われわれの祖父たちは喜んで国に殉じた。今はどうだ、『身を捨つるほどの祖国』にはおよそなりえていないじゃないか」と。
彼らの欝勃たる愛国心の行き場が『身を捨つるほどの祖国』の存在ということらしい。
この殺し文句を詠んだ寺山修二は、びっくりして黄泉の国から戻ってきたい気持ちだろう。
ぼくは、教養に欠ける若者たちは社会全体からおだてあげられれば、案外簡単に『身を捨つる』覚悟さえ持ちかねないと思うのである。
中国や韓国が反日教育を続ける限り、日本人も反発する気持ちを強くしていくだろう。
日本の右傾化は、そうした外的要因と「いつまでも過去の過ちで他国に貶められたくない」という心のうちの内発する内的要因で加速化して行ってるのではないだろうか?
「国が一体自分たちに何をしてくれたのだ?」という疑問を投げかける左翼人がいる。
一方で、「少なくとも団塊世代の人間は文句は言えないはずだ。それくらいの恩恵は国からじゅうぶん享受している」という右翼人がいる。
ぼくは、分析力とか洞察力がないから、このいずれにも肯首してしまうところがある。
ぼくの友人で、陸上自衛隊のグリーンベレーで2佐まで行ったものがいる。
先日の同窓会で、「憲法で守られている軍隊くらい気が楽な軍隊はない」と言い放った。
憲法9条で守られていたのは、自衛隊員だったのだ。
ぼくは何かとても嫌なことを聞いたような気がした。
つい二三日前、三島由紀夫を取り上げた番組をやっていた。
見るともなく見ていたら、「三島由紀夫VS東大全共闘」の場面が出てきた。
そこで、三島由紀夫からすれば、憲法9条で守られているのが自衛隊というおかしさを「日本精神の美学に反する」と言っていたのだと悟った。
その並びで言えば、「平和憲法遵守の日本は人道援助のために資金供出している」という名分も「戦禍に苦しむ子供たちを救う活動家」というレッテルもどこか嘘臭いし、「日本精神の美学に反する」醜さをまとっているような気がする。
窮地にある個人の命を助けたいことは人情的には理解するものの、救出理由はどうにもいただけない。
この崖は危険だからおやめなさいと言われたのに、自己責任で登るのだからと登り始め、助けようと思った知人は早々に命を落とし、自分は自力ではどうにもならないところに追い込まれている。
しかも、そのロープを切るかどうかは他国の判断に委ねている。
さらにいえば、人命尊重第一と言いながら、『身を拾うほどの人』かどうか、とまどっている…。
その戸惑いが透けて見えるからどうにも気持ち悪い。
ハッキリ言えば、国民全体がどことなく冷淡に見ている。
その現象がわが国民の世論とするなら、それも右傾化のなせる業なのか?
さて、皆さんは、いまの日本が『身を捨つるほどの祖国』かどうか、問われたら何とお答えになるのだろうか?
寺山修二の歌集『空には本』という歌集に納められている短歌である。
われわれ団塊世代であれば、青年時代、寺山修二、唐十郎という演劇人には少なからず大きな影響を受けた(筈だ)。
この歌は、新宿の紀伊国屋の近くの喫茶店で青木君という友人に聞かされた覚えがある。
青木君はその後東大安田講堂に立て篭もって、催涙弾を耳に受けた。
そして、その傷が原因で大学を中退した、そんなバリバリの左翼学生であった。
まぁ、当時の気分から言えば、『身を捨つるほどの祖国はありや』というフレーズは極めて左翼的なフレーズで吐かれたものだ。
「軍国日本じゃあるまいし、祖国に殉じるなど命を粗末にするだけの愚行」、そんな意味合いだった。
あの頃は、国家権力=右翼的復古主義者、反体制派=左翼的革新主義者といった構図の中で互いの価値観の尊貴を主張し合っていた。
で、左翼的革新主義者を標榜した人たちは、「あれほどの惨禍を今次大戦で味わったのにまだ復古主義を唱えるか、そこまで傾倒させる熱病的な愛国思想とは何か」と呆れる思いで、老人たちの復古主義に警戒心を抱いていた。
おそらく、寺山修二も同様の思いで『身を捨つるほどの祖国はありや』と詠んだに違いないのである。
日本人なら愛する国に命を捧げて何の悔いがあろうと考える人と、冗談じゃない、国に命を捧げるなどという美名のもとにまたあの悲しさを繰り返すのかと考える人がいる。
今もきっと、その価値観の対立は水面下では続いている。
ところが、あれから40年という歳月を経て、あの頃の若者が最も嫌った形而学的概念論が「左翼的革新主義思想」側にも起こっている。
最近の「朝日新聞誤報問題」、「従軍慰安婦問題での嫌韓的気分」、「謝罪外交、自虐的歴史観への反発」などがその現象であろう。
その中で、『身を捨つるほどの祖国はありや』というフレーズは、すっかり右翼的立場にある若者などに使われているのである。
「かつて、われわれの祖父たちは喜んで国に殉じた。今はどうだ、『身を捨つるほどの祖国』にはおよそなりえていないじゃないか」と。
彼らの欝勃たる愛国心の行き場が『身を捨つるほどの祖国』の存在ということらしい。
この殺し文句を詠んだ寺山修二は、びっくりして黄泉の国から戻ってきたい気持ちだろう。
ぼくは、教養に欠ける若者たちは社会全体からおだてあげられれば、案外簡単に『身を捨つる』覚悟さえ持ちかねないと思うのである。
中国や韓国が反日教育を続ける限り、日本人も反発する気持ちを強くしていくだろう。
日本の右傾化は、そうした外的要因と「いつまでも過去の過ちで他国に貶められたくない」という心のうちの内発する内的要因で加速化して行ってるのではないだろうか?
「国が一体自分たちに何をしてくれたのだ?」という疑問を投げかける左翼人がいる。
一方で、「少なくとも団塊世代の人間は文句は言えないはずだ。それくらいの恩恵は国からじゅうぶん享受している」という右翼人がいる。
ぼくは、分析力とか洞察力がないから、このいずれにも肯首してしまうところがある。
ぼくの友人で、陸上自衛隊のグリーンベレーで2佐まで行ったものがいる。
先日の同窓会で、「憲法で守られている軍隊くらい気が楽な軍隊はない」と言い放った。
憲法9条で守られていたのは、自衛隊員だったのだ。
ぼくは何かとても嫌なことを聞いたような気がした。
つい二三日前、三島由紀夫を取り上げた番組をやっていた。
見るともなく見ていたら、「三島由紀夫VS東大全共闘」の場面が出てきた。
そこで、三島由紀夫からすれば、憲法9条で守られているのが自衛隊というおかしさを「日本精神の美学に反する」と言っていたのだと悟った。
その並びで言えば、「平和憲法遵守の日本は人道援助のために資金供出している」という名分も「戦禍に苦しむ子供たちを救う活動家」というレッテルもどこか嘘臭いし、「日本精神の美学に反する」醜さをまとっているような気がする。
窮地にある個人の命を助けたいことは人情的には理解するものの、救出理由はどうにもいただけない。
この崖は危険だからおやめなさいと言われたのに、自己責任で登るのだからと登り始め、助けようと思った知人は早々に命を落とし、自分は自力ではどうにもならないところに追い込まれている。
しかも、そのロープを切るかどうかは他国の判断に委ねている。
さらにいえば、人命尊重第一と言いながら、『身を拾うほどの人』かどうか、とまどっている…。
その戸惑いが透けて見えるからどうにも気持ち悪い。
ハッキリ言えば、国民全体がどことなく冷淡に見ている。
その現象がわが国民の世論とするなら、それも右傾化のなせる業なのか?
さて、皆さんは、いまの日本が『身を捨つるほどの祖国』かどうか、問われたら何とお答えになるのだろうか?
この記事へのコメント
>いまの日本が『身を捨つるほどの祖国』かどうか?
まず誰のためと考えますね。誰かに扇動され、命令された動機では身を捨てたくは無いですね。 正直この老体を国のために捧げてくれという人はいないでしょうけどね(笑)
人道支援のお金、戦渦の子供を救う等のコメントは本当に胡散くささを感じます。
先日 私も「三島由紀夫」のことをやっていたTVをみましたよ(さすが兄弟・・・同じ番組を見ている・・笑)
知らないことが多かったですね・・・・(いまいち世代が違うから?)あのまま生きていたら・・その後の日本を見て・・・どう思っただろうか???
「頻発する地震と聖書預言」の記事につけたリンクと、「義援金の行方」につけたリンクをご覧になってみてください。