幼きもの、小さきもの
幼少の頃、ぼくのおばーちゃんがぼくを呼ぶのに、子供の名全員を順に言わないと辿りつけないのが不思議だった。
いたずらして、叱られる時も、「こらっ、みちこ、こういち、えーっと、ほら、ジロー!…」と言ってる間に姿を隠せば勝ちだった。
ぼくは、末っ子だったので、田原家の中ではずっと幼きもの、小さきものの代名詞みたいな所があった。
その座をわが家で引き継いだのが、季(とき)である。
家内などは、犬を飼っていた頃、リードを持ちながら、「ほらっ、ときちゃん、行くわよ」と言っていた。まったく当たり前のように言うそのたびに、長女が「ママ、こっちはセブだよ」と訂正していた。
今年の年賀状で、ぼくの母が間違えて、兄貴の子、つまりぼくの甥っ子への年賀状を送ってきた。
文面も宛名も甥っ子宛なのだが、なぜだか住所だけがうちになっている。
まぁ、母は今年96歳になるのでこういうこともするのだろうが、母の気持ちの中にも多分、幼きもの、小さきものは「ジローのところ」という無意識の概念が働いたのだろう。
人間のこういうところは、ときに悲しい。
もう、こっちも60過ぎているのに、甥っ子だって30を半ば過ぎようとしているのに、末っ子はいつまで経っても末っ子のままだ。
母の心の中には、冬でも半ズボンを履いて、走り回っていた幼いぼくが棲んでいるのかも知れない。
過ぎ去った日々が陽炎のようにとどまっているそのことが悲しく、わびしい。
いたずらして、叱られる時も、「こらっ、みちこ、こういち、えーっと、ほら、ジロー!…」と言ってる間に姿を隠せば勝ちだった。
ぼくは、末っ子だったので、田原家の中ではずっと幼きもの、小さきものの代名詞みたいな所があった。
その座をわが家で引き継いだのが、季(とき)である。
家内などは、犬を飼っていた頃、リードを持ちながら、「ほらっ、ときちゃん、行くわよ」と言っていた。まったく当たり前のように言うそのたびに、長女が「ママ、こっちはセブだよ」と訂正していた。
今年の年賀状で、ぼくの母が間違えて、兄貴の子、つまりぼくの甥っ子への年賀状を送ってきた。
文面も宛名も甥っ子宛なのだが、なぜだか住所だけがうちになっている。
まぁ、母は今年96歳になるのでこういうこともするのだろうが、母の気持ちの中にも多分、幼きもの、小さきものは「ジローのところ」という無意識の概念が働いたのだろう。
人間のこういうところは、ときに悲しい。
もう、こっちも60過ぎているのに、甥っ子だって30を半ば過ぎようとしているのに、末っ子はいつまで経っても末っ子のままだ。
母の心の中には、冬でも半ズボンを履いて、走り回っていた幼いぼくが棲んでいるのかも知れない。
過ぎ去った日々が陽炎のようにとどまっているそのことが悲しく、わびしい。


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